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Tuesday, February 19, 2008
"Benevolent Assimilation" 少数民族が存在するので、日本国を単一民族国家と呼ぶのは厳密には正しくない。それ以前の問題として、交通が発達し、国家間を容易に行き来できるようになった現在、純粋な意味での単一民族国家は存在しえない。 なお「単一民族国家思想」への代表的な批判者としては、小熊英二が挙げられる。 などとアホウなことが書かれたまま編集保護になっている。先日のエントリで見たように、単一民族国家発言で問題とされているのは、単にアイヌ民族が存在することを知らなかったという無知あるいは事実誤認ではない。問題なのは、アイヌの存在を知っていながらも、その土着民族としての固有のアイデンティティを認めていないと受け取られたから、それがかつての皇民化教育による強制同化政策の延長にあると捉えられたからである。(小熊もまさか「アイヌが存在するから単一民族国家論は誤りだ」などという間の抜けた指摘をするためだけに450頁にも渡る大著を著したわけではあるまい。) しかし、単一民族国家論を民族的自主性の軽視・否定や強制同化政策に関連づける批判についても、少々疑問な点がある。この関連を検証する前に、また単一民族論の定義を改めて見てみよう。今回は国語辞典ではなく小熊英二著『単一民族神話の起源』を引く: 単一民族神話と呼ばれるものには、二つの側面がある。一つは、「日本国家は同一の言語・文化をもつ日本民族のみから成立している」という、国家の現状認識である。そしてもう一つは、「日本列島には太古から、単一純粋な血統をもつ日本民族だけが生活してきた」という、民族の歴史認識である。もちろん両者は厳密にはわけられるものではなく、単一民族神話を唱える側も批判する側も、両者を混在させて論じているといってよいだろう。 つまり、小熊によれば、単一民族神話における「単一」には:
という二重の意味があるということである。この定義をふまえて小熊は、20世紀初頭の日本の拡張主義とその一環として行われた強制同化政策を支えたのは単一民族論ではなくむしろ混合民族論であったと指摘する。日鮮同祖論などがその最たる例で、要は、アジアの諸民族は皆同じ祖先を持つ兄弟であり、それゆえ欧米の帝国主義に対抗する為、天皇陛下のもと一致団結して巨大帝国を築くべきであるとされた。大日本帝国を構成する大和民族も朝鮮民族も支那民族も全て血縁であるから同じ「日本人」ではあるが、少々の差異は存在する故、それを矯正するために同化政策が施されたという。一方、戦中・戦前の単一民族論は、むしろ日本民族の純血の維持を唱えたため、同化の逆の隔離政策(優生学)、拡張の逆の孤立政策を支持していた。 単一民族論が以上のように定義されるなら、今日アイヌ他の活動家達が日本の政治家の「単一民族国家」発言を強制同化政策と関連づけて批判しているのは、誤りということになる。 単一民族論は、戦争に負けて多民族帝国が崩壊し、異民族人口が国内から消え去った後の日本で興隆した思想であると小熊は言う。その一例として三島由紀夫の「文化防衛論」を挙げている: 三島由紀夫の「文化防衛論」は、保守単一民族論の典型の一つだった。彼は津田ち和辻の文化共同体論や象徴天皇制論を引用して、「日本は世界にも希な単一民族単一言語の国であり、言語と文化伝統を享有するわが民族は、太古から政治的統一をなしとげており、われわれの文化の連続性は、民族と国との非分離にかかっている」と主張した。三島によれば、「敗戦のよって現有領土に押しこめられた日本は、国内に於ける異民族問題をほとんど持たなく」なり、「在日朝鮮人問題は、国際問題でありリヒュジー(難民)の問題であっても、日本国民内部の問題ではありえない」(358頁) 戦後の単一民族論における「単一民族国家」とは、同化政策の果ての、度重なる雑婚の産物としての単一民族ではなく、単に日本が戦争に負けて外地と異民族人口を殆ど失ったことによりもたらされた状態(残ったのは日本民族と日本列島だけ)でしかない。そして、領土拡張主義を正当化する為にアジア諸国の土着民族を血縁と見なし帝国に組み込む必要が最早無くなったため、日本民族は純血(単一の起源)でも良いことになった。こうした文脈で中曽根や鈴木らが「単一民族」発言をしていたのならば、混合民族論との関わりが深い強制同化政策などは念頭に無かったことになる…彼らの発言にしっかりとした思想的裏付けがあったのかどうかは不明ではあるが。(続く) Labels: 哲学 Monday, February 18, 2008
![]() ヤス 単一民族論:一つの国が単一の民族によって構成されているという主張を含む言説。多くは事実であるよりも、神話やイデオロギーとして、政治的に用いられる。(広辞苑第五版) 「単一民族論」という言葉が広辞苑に登場するのは1991年出版の第四版からである。1986年の中曽根康弘首相の単一民族国家発言をふまえ、これが「排外的な政治イデオロギー」として取り上げられた(小熊英二『<日本人>の境界』539頁)。中曽根以降も色々な政治家が同様の発言をしてその度に問題になっているが、まずは最初の中曽根発言がどういったものだったのか見てみよう: 中曽根首相の発言内容は、「日本はこれだけ高学歴社会になって、相当インテリジェントなソサエティーになってきておる。アメリカでは黒人とかプエルトリコとかメキシカンとか、そういうのが相当おって平均的に見たら(知的水準は)非常にまだ低い」というもの。これが、米国の黒人やプエルトリコ人をはじめとする大多数の米国人の反発を招き、人種差別発言として大問題となった。 まず最初にアメリカ系アフリカ人に関して差別的発言をしたと批判され、その弁解の際にヤブヘビ的に口にしてしまったものらしい。文脈からして悪く捉えられてしまうのも当然ではあろうが、中曽根が実際に差別的意図を持って発言していたかどうかはとりあえず措くとする。仮に「日本は単一民族国家である」という発言が「アイヌ民族の存在を無視する」という排外主義を主張するものであったなら、それは一体どういう解釈によるものであろうか? この発言は幾つかの解釈が可能である:
1番目はナチス並のストレートな人種差別主義の表明である。批判者も、まさか戦後日本の首相がそこまで酷い排外主義思想の持ち主であるとは考えていないだろう。2番目のような意見は琉球民族(沖縄県民)に関して暫し聞かれる。アイヌに関しても、アイヌを縄文人と同じ原日本人に規定して斯様な発言がなされる場合がある。3番目は単なるうっかりミス、または事実誤認である。中曽根に関しては東京帝国大学法学部を卒業している人間であり、まさかアイヌの存在自体を知らなかったわけはなく、事実誤認の可能性は無いだろう。いずれにしろ、少数民族に対し無神経な態度であることを露呈してしまったわけであるから、それなりの問題ではある。そうした無神経な態度が少数民族のアイデンティティを尊重しない政策実施に無意識のうちに繋がる恐れがあるのは否めない。が、「排外主義」「差別主義」などと糾弾されるほど深刻な問題ではあるまい。 いずれにしろ、「アイヌ民族の存在を無視する」だけでは今ひとつ問題点が正確に掴めない。他の政治家の単一民族国家発言についてはどうだろうか: 自民党の鈴木宗男衆院議員(比例道ブロック)が二日、東京都内で行った講演で「私は(日本は)一国家一言語一民族といっていいと思う。北海道にはアイヌ民族というのがおりまして、嫌がる人もおりますけれど、今はまったく同化されている」と発言。また、平沼赳夫経済産業相も同日、札幌市内のホテルで開いた自民党の中川義雄参院議員のセミナーで「日本は単一民族」と発言していたことが、三日明らかになった…鈴木氏は三日、北海道新聞の取材に対して「一般論として言った。一国家一言語一民族というと嫌がる人もいるから、それを断って言った。差別的意図はなかった」と述べた。一方、平沼氏はセミナーでの講演で日本の経済成長について触れた中で「小さな国土に一億一千六百万人のレベルの高い単一民族でぴちっと詰まっている。この人的資源があったからこそ、あの大東亜戦争に負けて原爆まで落とされて、いまだにアメリカについで世界第二位の経済大国の座を守っている」などと述べた。(北海道新聞2001年7月3日) つまり単一民族国家発言は、少数民族の民族的アイデンティティを否定・軽視するものであるため、および戦前・戦中に行った強制同化政策による民族的アイデンティティの剥奪に繋がる発想であるため、問題にされている。これは上述の2に相当する。 しかし、同化政策自体は必ずしも差別ではないし悪でもない。「民族の自主性を尊重せよ」という多文化主義(マルチカルチュラリズム)の観点からすれば無論望ましいものではないが、同化させるということは仲間として受け入れるということであり、排外主義や差別隔離政策の対極である。この限りでは、政治理念の違いであり、「虚妄」や「嘘」などではない。 ただし同化でも、全ての民族が平等に「人種のるつぼ」(melting pot)のごとく融合し新たな単一民族へと生まれ変わるのであれば良いが、戦中・戦前の皇民化政策ように少数民族の文化・伝統を一方的に奪い、多数派民族のそれを押し付け「日本人化」させるとなると、やはり問題である。この「日本人化」の場合であっても100%悪意でやっているとは限らないが、今の世の中ではさすがに通らない理屈であろう。アイヌの人びとが怒るのも理解できなくはない。(続く) Labels: 哲学 Wednesday, January 30, 2008
![]() 某掲示板で見つけた画像 日本語では「韓国」は国名で、民族名は「朝鮮人」だが、当の韓国では「韓」の字を使った民族名もあるようだ。韓国の新聞サイトや翻訳掲示板などを見ていると分かるが、「韓人」「韓族」などと書くらしい。まぁ妥当な表記法ではある。韓国において「朝鮮」という語は敵対する北朝鮮あるいは李氏朝鮮を意味し、現在の韓国人をさす言葉として使われると違和感を感じるらしい(それでか日本人を「江戸人」などと言い返してるのが掲示板にもいた)。ちなみに朝鮮半島は「韓半島」となる。 では「韓系日本人」なる語は存在するのだろうか? Google検索すると47ほどヒットする。機械翻訳した「한계 일본인」では4件のみ。「韓系」は沢山ヒットするが、その全てが朝鮮民族系を意味するのかは不明。 日本ではもともと「(在日)朝鮮人」が一般的な呼称であったのが、戦後、朝鮮半島が南北に分断され韓国と北朝鮮という二つの反目する国家に統治されるようになったため、政治的配慮から「韓国系日本人」「在日韓国人」という語が生まれたのであろう。最近では「朝鮮」「韓国」共に使わず「在日コリアン」という呼称を使う場合もあるらしい。 それと同じ流れで「朝鮮語」も「ハングル語」などと表記したりする。しかし、これも「ハングル」というのは日本語の仮名に相当する文字の名前で言語名ではないので、妙な呼称である(日本語で言うなら「仮名語」と言うようなもの)。 「中国系日本人」についても同じようなことが言える。この場合、戦中・戦前は「支那人」と呼ばれていて、中国での中国人の民族名は「華人」らしい。では「中国系日本人」は「中華系日本人」とするほうが正確なのだろうか? Labels: 哲学 Monday, January 28, 2008
菊の御紋のパスポート 広辞苑 日本人=日本国民というのは明白な定義で、これについては曖昧な部分など無い。しかし日本人は、大辞林におけるように、単に「日本の国籍をもつ者」に限定されるものではない。例えば「日系アメリカ人」などの語においては「日本人」(「Japanese-American」の「Japanese」)をアメリカ国内における少数民族(英:minority ethnic)の一つとしてとらえており、日系アメリカ人は当然日本国籍など所持していない。「アメリカ人」という言葉の場合はほぼアメリカ合衆国民に限定され、「アメリカ民族」なる概念は存在しないので混乱の余地は無いが、「日本人」の場合は少なくとも国民としての日本人と民族としての日本人の2つの意味を有し、そう話は単純ではない。 では国民以外の日本人定義には如何なるものがあるのか? 広辞苑には「日本国に国籍を有する人」とは別に「人類学的にはモンゴロイドの一。皮膚は黄色、虹彩は黒褐色、毛髪は黒色で直毛。言語は日本語。」とある。しかし、黄色い皮膚云々は東アジアの諸民族の多くにも共通する生物学的な特徴であり、日本人固有のものではない。俗に「日本人」と呼ばれる集団に共通する生物学的特徴としてこれらを挙げる事はできても、それだけをもって独立した「日本人」という人種的分類を成す事はない。人種的分類としてはモンゴロイドだけで済む。また、「日本人」のそうした遺伝的特徴なり形態的特徴を調査するには、まずは調査対象となる「日本人」をサンプリングせねばならないわけで、その際の選定基準はそもそも何だったのという疑問が残る(「日本人」定義があらかじめ無ければ「日本人の特徴」など調べようが無い)。後半の「言語は日本語」も、日本語を喋れば日本人になる、というのもおかしな話である。ケント・デリカットは流暢な日本語を話すが別に日本人ではない。 次に、国語辞典より少し詳しい百科事典を見てみよう: 世界大百科事典(平凡社) 世界大百科事典もマイペディアも共に、俗に「日本人」と呼ばれる集団が持つ生物学的特徴をだらだらと述べているだけで、上述の通りこれらの特徴が日本人に固有のものでない以上、これらをもって日本人の定義とすることはできない。エンカルタ日本語版では「日本人をほかのモンゴロイドと明確にわける身体的特徴をあげることは不可能であり、モンゴロイド人種内の1グループとして『日本人種』というたしかな集団が存在するわけではない」とはっきりと書いている。Encyclopædia Britannicaは「Japan」の項目内に「Japanese ethnicity」の節を設けているが、これが日本の人口において多数派を占め「アジア地域人種」(Asiatic geographic race)に属するとするとしている。後半は平凡社百科事典と同じく具体的な定義にはなっていない。前半の「多数派」も、多数派認定されるには予め独立した分類として日本人定義が確立していねばならず、「多数派」のみでは日本人定義たりえない。Columbia Encyclopedia、エンカルタ英語版もEncyclopædia Britannicaと同様である。 エンカルタ日本語版の第三の定義が興味深い:「日本民族という意味で、文化を基準に人間を分類したときのグループである。また、文化のなかで言語はとくに重要なので、日本民族は日本語を母語としてもちいる人々とほぼ考えてよい。」日本人=日本に固有の文化を共有する集団であるところの日本民族と言うわけだ。「文化のなかで言語はとくに重要」というのは前述の広辞苑の定義「言語は日本語」とも合致する。そこで、「民族」の定義をふたたび国語辞典で引いてみる事にする。 広辞苑 同じ文化を共有し、その共有に長い歴史があり、かつその集団において同属意識がある。なるほどもっともな定義だ。大辞林の定義にある「共通の出自」つまり共通の祖先を持つという事は、平凡社百科事典で延々と述べられている人種的(生物学的・身体的)特徴にも繋がる。「同属意識」も、例えばアメリカの国勢調査等においては民族的出自の項目はほぼ自己申告であり、言わば調査対象が「同属意識」を持っていることが唯一の基準になっている。 であれば、「日本人」の定義として最初から「日本民族:日本固有の伝統文化(特に言語)、出自(先祖、遺伝子)、歴史を共有し、同族意識を持つ集団」とでも国語辞典に載せておけば良いものを、何故かそういう簡潔で包括的な定義を一カ所に見つけることは難しい。広辞苑には「大和民族」という語も載っているが、その定義は「日本民族に同じ。→日本人。」のみ。上述の広辞苑の2番目の日本人定義「人類学的にはモンゴロイドの…」を指すのであろうが、これが適切な定義ではないことは上で示した通り。 なんとも不思議な話である。日本民族定義の曖昧さの原因については、また後に改めて考えてみたい。 Labels: 哲学 Saturday, January 26, 2008
![]() 伊東先生 この出来事について、後の場面で谷原章介演じる大学の准教授とその生徒が、1+1の答えはブール代数では1だし、二進数では10になる等々と指摘する。そして、「1+1=2」とは決まっていない、その答えには「もっと可能性がある、可能性は好奇心があるだけ生まれて行く」「1+1は2としか言えない君、2以外の可能性を全て消して、子供の純粋な好奇心を無視することしか出来ない君は、面白くない人間だ」などと伊藤に講釈をたれる。 1+1の答えに2以外の可能性があるというのは結構なことだが、その前に1+1=2とされることの重要性を子供達にきちっと教えてやる必要があるのではなかろうか? 2以外の答えの場合同様、単なる決まり事だ、数学の公理系における定義だ、ではロクな答えになっていない。それでは「じゃあ何でそんな定義をしたのか?」と子供にさらに質問されるだけだ。 「どうして1+1は2なの?」という子供の問いに対しミカンの例で答えた伊藤の対応は半分正しい。それは数学の歴史を紐解けばすぐに分かる。人類史において、数学は物々交換の経済や農地開墾のための測量の必要から生まれた。ミカン1個と1個をあわせれば2個。2個を相手にやれば、2個に相当する物品を交換で貰う。勝手にミカンを2つに割って3個だと言い張り3個分の料金や物品を要求しても、そんな詐欺じみた要求が通るわけは無い。この取引において1個の単位はミカンであってミカン粒ではないのだから、勝手に単位を変えて数字を変えることはできない。 そうした実用的な学問としてまず数学が生まれた。それが後に現実の事物とは直接対応しない、自立した抽象概念の学問体系として発展していったことで、ブール代数やリーマン幾何学などが生まれて行ったのだろう。そして、それがまた回り回ってきてコンピューターなど現実社会の技術に応用されることになる。しかし、全ての始まりは地に足着いた1+1=2の数学である。 数字や言語という抽象概念を使った思考は人間の専売特許である。他の動物も、例えば餌が「たくさん」あるとか天敵が「少ない」場所といった認識はできるだろうが、そうした原始的な論理的思考能力が人間の言語力、数学力へと進化するのには膨大な年月を要している。ミカン2個を「2」という抽象概念で表現できることの意義は大きい。 Labels: 哲学 Friday, January 25, 2008
![]() ベンサムのミイラ 哲学的問題の多くは言語に関する誤解に起因しているとし、国語辞典などを使用して日常言語における問題概念の用例を検証する方法論を提唱したジョン・L・オースティンにならって、まずは国語辞典で「道徳」他の定義を引いてみる: 広辞苑要は道徳というのは、行為の善悪を規定する基準、規範のことである。道徳は、日本語においては一般に、政治的権力の裏付けを持ち物理的拘束力がある法律に対し、人が個人として自ら行動を律する際に参照する規範のことを言うが、「善悪を規定する規範」ということでは道徳は法律を包摂する。伝統、風習に基づく価値観、宗教、法律(公衆道徳)など、道徳的規範にも色々あるが、善悪を学問的に深く探求し、体系を構築すれば道徳的規範は道徳哲学となる。 厳密には道徳哲学には二種類ある。一つは研究者自身も正しいと信じる規範を提唱する規範倫理学(英:normative ethics)。これは一般的な道徳規範の延長と言える。もう一つは道徳的規範を、あたかも人類学者が異民族の風習をフィールドワークで調査するような形で、客観的に研究するメタ倫理学(英:metaethics)である。例えば、快楽を増幅する行為が善であるとし、最大多数の最大幸福を推奨する功利主義は規範倫理学の学説である。ある行動が正しいという道徳判断はその判断者のその行動に対する支持の感情を表すものである、とする情緒説(英:emotivism)はメタ倫理学の学説である。(もはや哲学というより心理学に近い。)後者が道徳的判断・言明を分析するだけに留まるのに対し、前者は分析に加えて望ましい道徳規範を提唱している。 では「責任」の概念の方はどうか。「道義的責任」とあるからには、責任概念を用いる道徳的規範があるということだ。先述の、イギリスの哲学者ベンサム、ミルらが提唱した功利主義が快楽概念によって行為の善悪を判断するように、責任概念を道徳的価値判断の基礎におく道徳哲学がある。これを義務論(英:deontology)と呼ぶ(日本語の哲学用語では「責任」ではなくて「義務」という言葉を使う)。ドイツの哲学者カントらが主な提唱者。功利主義が行為の結果がもたらす快楽の量によって善悪を規定するのに対し(結果主義、英:consequentialism)、義務論においては、結果がどうあれ、善行はその行動自体が善であるが故に行われなければならないとする。 カントはまた懲罰における応報刑論の主要な論者の一人でもある。 広辞苑 一方功利主義では、犯罪者を犯罪を犯したが故に罰するのではなく、さらなる犯罪を抑止することを目的とした懲罰を提唱する(目的刑主義)。 Labels: 哲学 Thursday, January 17, 2008
![]() イマニュエル・カント 道義的責任の概念が意味を成すには、人間個人が責任を取れる自立した理性的存在であるという前提を要する。例えば殺人は悪だが、洪水で人が死んでも自然現象に責任など問いはしないし、クマに人が襲われ殺されても動物に責任など問わない。無論、氾濫する川や人食いグマは、犯罪者認定などされなくとも害悪を起すという純粋に物理的、因果的な原因として排除(治水、射殺)されることにはなるが、その対処は人間の犯罪者に対するそれとは性格が本質的に異なる。被害者側においても、たとえば食肉用に牛を屠殺したところで罪など問われないが、被害者が人間であれば殺人罪になる。こうして、道徳的価値観の本質的基準として人間個人が措定されることになる。 一見筋の通った明白な理屈だが、責任原則を適用するには曖昧で難しいケースが多々ある。例えば加害者が知的障害者であったり未成年であると責任が減じられたりする。被害者側でも、植物人間を安楽死させたり、胎児を妊娠中絶する場合などには、通常の殺人ほど重い罪は問われない。どこまでが「人間」でどこからがそうではないか、の境界は曖昧である。 加害者側が複数だと責任は分散される。1人で2人以上殺せば死刑は確実だが、複数人で2人殺したなら、たいがい犯人それぞれが懲役刑を受けるだけですむ。では、加害者が100人、1,000人と増えていったらどうなるのか? 国家による犯罪は、民主主義国であれば理論上、参政権を持つ主権者たる国民全てに責任があることになる。しかし、1人の死に対する責任を数千万人で割ったら微々たるものだ。懲役刑にしたら一人当たりコンマ数秒だろう。賠償については、加害者側の一人当たりの支出は微々たるものになろうとも被害者が受け取る額自体は変わらないから問題は無いが、応報的懲罰についてはほとんど意味をなさなくなってしまう。 昔のマルクス主義者がよく使った例に貧困と犯罪の関係がある。例えばある人Bが貧困ゆえに窃盗の罪を犯したとする。そして、その貧困はB個人の怠惰によるものではなく、Bの住む社会の不当な差別的、搾取的構造に起因するものであったとする。この犯罪について、B個人に責任を問い、Bを懲罰するべきか? はたまた社会の差別的、搾取的構造が原因であるとし、社会改革を促すべきか? 無論、全てB個人の責任にしてしまったほうが楽であるし、その社会において恵まれた地位にある人間にしたら現状を維持したいだろうから、斯様な犯罪の責任はすべて個人に押しつけようとするだろう。こうして責任概念が都合の良い言い訳になる。系譜学者に言わせると責任概念などは奴隷道徳の賜物ということになる。 似た概念に功績(desert)がある。ある個人Cが一生懸命働いたなら、Cはその努力に見合うだけの報酬を得るべきだ。一方、自堕落で働かない個人Dには、自業自得だから何の報酬も与えられるべきではない。実にアメリカンドリーム的なストレートな理屈で、沢山の人が支持するだろう。しかし、努力して結果を出せるかどうかは、その個人の持って生まれた資質(知能、人格、体力等)および運によるところも大きく、純粋に努力だけで判断できるものではない。生まれ持った資質には格差があり、それは生まれ落ちた時点で決まっているのだから努力のしようもない。Dが低知能、虚弱体質、性格最悪に生まれたことに対してはD個人に「責任」はない。さらには「努力できる才能」もまた持って生まれた資質の一つと見ることが出来る。富の再分配で福祉制度などのために自分の財産が奪われるのが嫌な資産家は、そのようなことを認めるわけにはいかず、富=個人の努力の賜物(個人の「責任」)という個人主義的倫理観に固執することになる。 続き:道義的責任その2(道徳、責任の定義) Labels: 哲学 Monday, January 14, 2008
![]() 「反骨の柔道王」 日本社会において彼は少数派の被差別側の人間だ。こうした不祥事に関しては、世間の目は一般日本人に対するよりも自然と厳しくなる。むしろ優等生を演じるくらいで丁度いいのに、不祥事を二度も繰り返してしまうというのは、ありえないだろう。少数派出身の有名人は、問題を起こしたら同じ少数派に属する他の人にもバッシングがふりかかってくるのだから、最低限の品位は保つ責任くらいあるのではないだろうか? 無論、仮に秋山の事件のおかげで在日のイメージが悪化し、何らかの差別的な扱いを被った人がいたとしても、直接的に悪いのはその差別を行った人間であって秋山ではない。憲法で保証されている個人主義的な平等の理念に厳密に照らせ合わせれば、それは不当な差別でしかない。しかし、現実の人間社会は原子のようにバラバラな個人だけで形成されているわけではない。人間社会は家族、民族、地域共同体、国家、教会、会社など、様々な相互扶助の集団ユニットで成り立っており、その構成員にはしばし連帯責任が問われる。逆に、例えば在日出身で社会的に成功した人物がいれば、他の在日同胞の人々も誇らしく感じ、世間における在日のイメージが向上すれば彼らも恩恵を受けるわけだが、そういう「連帯責任」については当然ながら誰も文句など言わない。それどころかロールモデルとして肯定的に捉えられている。良いことが起こった場合にだけ皆で恩恵を受けて、悪いことが起こった時には別個の個人だ、一緒に扱うのは不当な差別だ、などというのも少々都合が良すぎるだろう。勝手にある集団の一員であると認定されて連帯責任を負わされてしまったのなら問題だが、自由意志で自らその集団の一員であり続け、そう自認しているのであれば、その程度の責任を問われてもやむを得ないだろう(国民としての義務並の責任とは言わないまでも)。特に秋山は韓国におけるデニス・カーン戦後に「わが大韓民国最高!」と自身の民族的ルーツをアピールしているくらいなのだから。 少数派出身だからといって皆が優等生のアンクルトムを演じなければならないなどとまで要求すれば、それは酷な話ではある。全員がマイケル・ジョーダンになれるわけではないし、体面など気にせずデニス・ロッドマンのように自由に生きたい人もいるだろう。差別待遇もヘイトクライムのような極端な差別に至れば大きな社会問題であり、「連帯責任だ」などと言って看過されるべきものではない。しかし、「見る目が厳しい」程度の差別待遇であれば、それはどんな社会においても避けられない定めのようなものであり、ある程度は甘んじて受け入れて生きていかねばならないのではないだろうか? これは民族に限らず他の少数派についても言える。全ての属性において多数派の人間などそういないのだから、程度の差はあれ、それは誰しもが経験する社会の現実だろう。 少数派の有名人の起こした問題は、もとからその少数派グループにつきまとうネガティブなステレオタイプをさらに強化しかねない。昨年、ゲイのカップルが養子にとった男児を性的虐待した事件があったが(BBC: Foster carers jailed over abuse)、そんなことしたらもう本当に取り返しがつかない(欧米にはゲイ=小児性愛者という偏見がある)。これまで性的少数派の人たちが地道にイメージ改善して来た努力があっという間にパーである。こういう事件は実にやるせない。少し前には、格闘技=粗野で乱暴という偏見もあった(参照:袴田事件、ルービン・カーター事件)。そうした点からも、少数派の有名人は殊更行動に気をつけないといけない。 少数派出身の人間が不祥事を起してしまった後の弁明は本当に空しいものがある。例えば外国人犯罪はどの国でも排他主義の格好のネタだが、「メディアが外国人犯罪だけをセンセーショナルに取り上げる、日本人が同じ犯罪を犯した場合よりも厳しく非難しぎる、差別だ」などと文句を言っても、「犯罪者」を「そんなに言うほど悪くない犯罪者」だと言い訳するようなもので、たいへん空しい。無論、もし不祥事を起してしまったなら、臭いものにふたで完全スルーを決め込むわけにもいかず、嫌でも誰かが弁明してやる必要はあるだろう。これは光市母子殺害事件のような凶悪犯罪における弁護と通じるものがある。いかに忌まわしき凶悪犯罪者であろうと誰かが弁護してやらねばならない…まぁ光市母子殺害事件の場合は、死刑反対の人権派弁護団が妙な生き甲斐をそこに見いだしてしまっていて、やる気まんまんのようだが…それにしても、空しい話だ。必死に弁護したところで大して報われないのだから。 少数民族の場合は、犯罪者などとは異なり、その地位を向上したいのであればもっとポジティブな、やりがいのあることが沢山ある。例えば、先述のように、スポーツや芸能、ビジネスなどの分野で逆境にめげず成功者になるなど。少数派を虐げられし、哀れむべき、守られるべき存在であると喧伝したり、不当な差別だと体制(他人)を非難するだけの運動は、どうにも腑に落ちない。「差別利権」などという批判もあるわけで、何より、そんなことだけに人生が費やされてしまっては悲しすぎる。差別と戦うことを生き甲斐にしてしまっているようなプロ市民の方々にはそれでも良いかも知れないが、当の差別されている少数派の人達にしてみれば、差別と戦うためだけに人生を費やすのは空しすぎるだろう。 まぁそうした付帯的な問題はおくにしても、秋山は純粋に総合格闘技選手としても外国人勢にパワー負けしない、ポスト桜庭の中重量級エースとして期待されていた日本人(アジア系)有望株だったから、ほんとうに残念だ。クリーム問題以外は言動も態度もなかなか殊勝だし、キャラ的にも悪くなかっただけに。 |
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