「だがな、ベロニカ、このおれがコマンドのこころを棄てたとは思わないでくれ。高級官僚の椅子に座りたがってるとは考えないでくれ。この国は独立したばかりだ。その基盤はあまりにも弱い。そして、その弱さにつけ込もうとする山猫やハイエナどもはあまりにも多い。もしこのおれが猟犬となってその連中を狩らなければどうなる? この国はまた内戦に突入し、結局はもとの白人国家に戻ることになるんだ。そうなったら、何のためにおれたちが父や兄弟達たちの血を流して戦ってきたかわからなくなる。おれはだれが何と言おうと、この猟犬の役割をみごとに演じて見せるよ。
『蛮族ども』
「聞かなくたってわかっている。あんたがた文明人とやらの夢は実にみすぼらしい。立身出世の夢、物質を所有する夢、そしてせいぜいが家族や個人的な関係を持続する夢だ。だが、アフガン人は違う! この小さな国は絶えず外国の侵略に晒されてきた。イギリスの次はソ連だ。アフガン人の夢はな、そういう外国勢力を撥ねのけ、アフガン人がアフガンの大地を自由に跳びはねる夢だ! いかなる外国の策謀もはねのけ、アフガン人がイスラムの戒律だけに生きる夢だ! もちろん、その夢が簡単にかなえられるはずもない。そういう夢はいつだって血塗られた夢となるからだ! 」
『血と夢』
ジョージ・ウェップナーは言語学者や登山家といった経歴を棄てて中央情報局(CIA)の作戦部秘密工作課第四班に籍を置いた理由はたったひとつだとじぶん自身を納得させつづけている。
中央情報局に奉職を決意したその当時、アメリカ合衆国は実に惨めな状態にあった。ヴェトナムからの撤退はすでに決定済みだったし、それに乗ずるかのように世界各地では反米運動が展開されていた。国内ではウォーターゲート事件によるあらゆる権威の失墜、通貨の面ではかつてびくともしたことのないドルに切り下げ…世界の秩序の中枢であったアメリカ合衆国は巨像が得体の知れない虫に食い荒らされるようにぼろぼろになりつつあった。
ウェップナーの脳裏である考えが天啓のように閃いたのはマンハッタンの夕映えを眺めていたときのことだった。祖国を救わねばならない! それは電撃のように全身を貫いたが、はじめて知った恋に似て他人にうち明けられる性質のものではなかった。
祖国愛などいまでは博物館にしか陳列されていないし、中央情報局のなかでもそんな言葉を口にする人間はいはしない。だから、いいのだ。だからこそ、その言葉は崇高な輝きを取り戻しつつある。
ウェップナーは祖国への忠誠を誓うと同時にいままで脳裏に澱のように溜まっていたごちゃごちゃしたものが霧散していくことに気づいた。民族の問題、文化葛藤の問題、階級の問題…そのような知識人を苦渋のなかに閉じこめるものが一切、消えていたのだった。ウェップナーは十数年来。気分を沈鬱にさせていた内面的な重圧感から一気に解き放たれたような気になった。
それからは他の局員たちの数倍の頻度で破壊活動をつづけてきた。夥しい血がこの手で流されたが、それもこれも祖国を救うためなのだという信念はいままで一度も揺らいだことはなかった。
『神話の果て』
むかし、おれにもこのふたりみたいな時期があったんだ、イラクで動きまわっていたときはな。もちろん、このふたりとちがってイスラムの教義は完全に棄て去り、マルキシズムで武装した組織のもとに馳せ参じていたが、気分は似たようなものだろう。祖国と民族の解放のためなら命なんか惜しくも何ともなかった! それがいまじゃ、報酬のためだけに外国人のあんたがたに雇われて西サハラの人間を踏みつぶしているんだ。恥ずべき行為だが、もう引き返せやしねぇ。札束だけを求めて地獄の底を這いずり回ると決めたんだ。それなのにこのふたりを見ていたらむかしの自分を憶えだして…それで、そいつに断固とした別れをあらためて告げることにしたんだ。だから、ああやって殴りつづけたんだ」
『猛き箱舟』
マホウスキは淡々と語られるこの言葉を聞きながらペテルブルグ郊外ヌメルトイ通り十九番地で殺したミハウ・クラコヴィッチのことをちらりと憶いだした。救国ポーランド貴族団のあの指導者の激烈だった煽動。今から考えれば、あれは実に薄っぺらなものだった。どうしてあんなものにロシアに住んでいたポーランド人たちはみんな衝き動かされたのだろうか? いや、こんなあらたまった問いは意味がない。それは時代感情とでも名付けるべきなのだ。救国ポーランド貴族団のなかに溢れかえった情熱はあの時代あの場所にいたポーランド人にしか理解できないだろう。マホウスキはそう思いながら炎の向こうを眺めつづけた。
『蝦夷地別件』
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